私たちが日常で経験するものはほぼすべて、始まりというもの があるようです。それどころか、科学法則によると、太陽や星の ように私たちの一生の間には一見して姿を変えないようなもので さえ、衰えていきます。太陽は、毎秒何万トンもの燃料を消費し ています。太陽もまた永遠に存在し続けられないことからすると、 太陽にも始まりというものがあったはずです。同じ事は宇宙全体 についても言えるのです。
クリスチャンの主張によると、聖書に書かれている神(造り主) がすべての基礎的な生命体と全宇宙とを創造したことになります が、次のような一見もっともな疑問を抱く人がいるかもしれませ ん。「誰が神を創造したのでしょうか。」
聖書の最初の一節は、明白に物語っています。「初めに、神が ……。」ここには、神(造り主)の存在を証明しようとする試みも なければ、造り主に始まりがあったということを何らかの形でほ のめかそうとする試みもまったくありません。それどころか、聖 書の至る所で、造り主は時間の外側にいるということがはっきり と示されています。造り主は永遠の存在で、始まりも終わりもな い、無限の方なのです。造り主はまた、すべてのことをご存じで あり、その知性には限りがありません。(注1)
しかし、このような永遠の存在を受け入れることは理にかなっ ているのでしょうか。コンピュータ、スペースシャトル、最先端 の医学という技術を生み出した現代科学は、このような考えを受 け付けるのでしょうか。
聖書が主張しているように、すべての造り主なる永遠の神が本 当に存在するのかどうかを知るには、私たちはどのような証拠を 求めるべきなのでしょうか。不可能を知らない(全能なる)造り主 の御手を、どのようにして見出せるのでしょうか。
聖書の主張によると、神(造り主)はすべてのことをご存じで す。つまり、造り主は「全知」なる方なのです。そのため、造り 主の知性には限りがありません。造り主のみわざを見出すには、 造り主が知性によって行なったみわざを示す証拠をどのようにし て見出せるのか、というところから始めなければなりません。
洞窟 どうくつ の中で骨とともに石器を発見するとき、なぜ科学者は異常 なまでに興奮するのでしょうか。それは、石器が知性の存在を物 語っているからです。石器が自らを設計し、作り出したのではな く、知性を投入した結果として生まれたということを科学者は認 めます。このように、科学者は知的生物が石器を作ったという当 然の結論に達するのです。
同様に、中国の万里の長城、米国の首都ワシントンの国会議事 堂やオーストラリアのシドニー・オペラ・ハウスを見て、このよ うな建物が煉瓦工場の爆発によって形作られたという結論を出す 人は誰もいません。
また、ラシュモア山にある4人 の大統領の顔が、何百万年にわた る浸食作用によって生まれたと考 える人もいません! そこに設計、 すなわち知性が働いた証拠を認め ることができる ... からです。
人間が作ったものは、私たちの 生活のあらゆる所にあります― 自動車、飛行機、ステレオ、コン ピュータ、家、電化製品などです。 けれども、このような物が時間と 偶然の産物に過ぎないとほのめか す人は、絶対にいません。設計と いうものは、至る所にあります。 自動車を製造するには、エンジン やトランスミッション、車輪、そ の他複雑な部品が必要になりますが、ただ鉄を放っておけば、い ずれそれらの部品ができあがるという考えは、決して私たちの思 考回路の中に素直には入ってきません。
この「設計の議論」は、ウィリアム・ ペイリーの名前と関係付けられること がよくあります。ウィリアム・ペイリ ーは英国国教会の聖職者で、18世紀 に設計というテーマについて書いた人 物です。彼に関する事柄のうち特に有 名なのは、時計と時計職人の例です。 石と時計との比較について議論を進 め、彼は次のような結論を出しました。
「時計があるからには、それを作った人がいたはずで す。つまり、ある時点のある場所で、時計を考案した 人がいたはずであり、その時計職人は、時計の果たす 目的のために時計を作り出したのです。すなわち、時 計職人は時計の構造を理解し、その利用方法を設計し たのです。」(注2)
このように、時計が時計職人の存在を暗示するように、生き物の 中に見受けられる設計は、設計者なる方の存在を暗示する、とペ イリーは考えました。ペイリーはすべてのものを創造した神を信 じていましたが、ペイリーの信じていた神は、被造物から遠く離 れてしまった偉大な設計者なる方に過ぎず、聖書に書かれている ような個人的な関係を持つ神ではありませんでした。(注3)
しかしながら今日では、すべての植物と生き物(時計や車を作 る知性あふれるエンジニアを含めて)は進化のプロセスの産物で あり、造り主なる神の産物ではない、というふうに考える人が大 部分であり、先端を行く科学者もそう考えています。(注4) しか し、この立場は本当に擁護できるのでしょうか。
故アイザック・アシモフ(熱心な反創造論者)は断言しました。 「人間には3ポンド[訳者注: 約1360グラム]の脳があって、そ れは私たちの知る限り、宇宙で最も複雑で整然と組み立てられた 物体です。」(注5)
人間の脳は今まで作られた最も複雑なコンピュータよりもはる かに複雑です。高度な知性を備えた人間の脳によってコンピュー チャールズ・シモニーによって新しくオックスフォード大学に 設けられた、「大衆の科学理解に関するチャールズ・シモニー教 授職[訳者注:原語は"Charles Simonyi Chair of Public Understanding of Science"]」の地位にあるリチャード・ドーキ ンス博士は、世界で指折りの進化論代弁者となりました。「ブラ インド・ウォッチメイカー(原題:The Blind Watchmaker。盲 目の時計職人の意)」などの書物を出版した結果、ドーキンス博士 はそのような地位を得たのですが、「ブラインド・ウォッチメイ カー」の中でドーキンス博士は造り主なる神という概念に対し徹 底的な反論を加え、現代的な進化論を擁護しています。そのドー キンス博士さえ次のように述べているのです。
「生物は、偶然によって生まれたとはとても考えられ ず、しかもみごとに『デザイン』されているように思 われる。」(注7)
私たちの惑星に住む動物と植物の中に、はっきりと現れている 設計を、この上なく熱烈な無神論者でさえ認めていることには、 まったく疑いの余地がありません。しかし、設計における「偶然」 を退け、なおかつ造り主なる神を受け入れないならば、ドーキン スは「偶然」に代わるものとして何を持ち出すのでしょうか。
設計があるということは、自 お の ずと設計者の存在を暗示していま す。クリスチャンにとって、私たちの周囲にある設計はすべて聖 書の説明と一致します。「初めに、神が天と地を創造した。」(創世 記1:1)及び、「なぜなら、万物は御子[イエス・キリスト]にあ って造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるも の、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子 によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子の ために造られたのです。」(コロサイ1:16)という記述です。
しかしながら、リチャード・ドーキンスのように生き物の中に 設計があることを認める進化論者は、「設計者なる方、神」という 考えを、種類を問わず拒絶します。ペイリーについて、ドーキン スは次のように語っています。
「ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、 当時の最良の生物学的知識がこめられている。にもか かわらず、それは間違っている。みごとなまでに完全 に間違っている。望遠鏡と眼、時計と生きている生物 体とのアナロジーは誤りである。」(注8)
なぜドーキンスはこのように主張するのでしょうか。それは、 ドーキンスの考えでは、設計の源が― ドーキンスの言葉を引用 すると―「盲目の物理的な諸力」と自然淘汰 とうた のプロセスにあるか らなのです。ドーキンスは次のように記しています。
「見かけとはまったく反して ............ 、自然界の唯一の時計職 人は、きわめて特別なはたらき方ではあるものの、盲 目の物理的な諸力なのだ。本物の時計職人の方は先の 見通しをもっている。心の内なる眼で将来の目的を見 すえて歯車やバネをデザインし、それらを相互にどう 組み合わせるかを思い描く。
ところが、あらゆる生命がなぜ存在するか、それが なぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明 するものとして、ダーウィンが発見しいまや周知の自 然淘汰は、盲目の、意識をもたない自動的過程であり、 何の目的ももっていないのだ。自然淘汰には心もなけ れば心の内なる眼もありはしない。将来計画もなけれ ば、視野も、見通しも、展望も何もない。もし自然淘 汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよ いなら、それは盲目の時計職人なのだ。」(注9, 強調筆者)
しかし、ドーキンスは次の点で譲歩しています。
「物事の起こる確率が統計的に低ければ低いほど、そ のことはまったくの偶然で起こったというふうに考え るのが困難になる。うわべだけを見るなら、偶然性に 取って代わることのできる明白な選択肢は、知性を持 った設計者なのだ。」(注10)
それでも、ドーキンスは「知性を持った設計者」という考えを 退け、代わりに次のような「答え」を述べています。
「それについての、ダーウィンの答 えは、単純なもの、つまり偶然によ って生まれるくらい単純な原初の実 体からはじまって、一歩一歩漸進的 に変化してきたというものだ。漸進 的な進化の過程において次々に生じ る変化の一つ一つは、その先行者と ...... 比べれば .... 、偶然によって生じうるく らい十分に単純なものだった。
とはいえ、最初の出発点に比べてその最終産物がい かに複雑であるかを考えてみれば、偶然にはよらない 何らかの過程が、この累積的な変化系列全体を構成し ていることがわかるだろう。
累積的な過程は、生き残りがでたらめには起きない ことによって方向づけられている。この章の目的は、基 本的に非ランダムな、つまりでたらめではない過程と しての、この累積的淘汰 とうた の力 パワー を示すことにある。」(注11, 強調は原文より)
したがって、基本的にドーキンスの主張していることは、自然 淘汰(注12、13、14)と突然変異(注15、16、17)とが進化のプロセスのメ カニズムを提供しているのだということに過ぎません。このプロ セスは「非ランダム」であり、「でたらめではない」とドーキンス は考えます。しかし実は、これは進化そのものが設計者だという ことを洗練された方法で表現しているだけなのです。
生命は情報の上に組み立てられています。この情報は、生命体 の遺伝子を形作るDNAという分子の中に含まれています。その ため、自然淘汰と突然変異が進化のプロセスの基本的メカニズム であるという議論を立てるとするならば、自然淘汰と突然変異の プロセスが、生き物の中に明白に見られる設計の大本 おおもと となってい る情報を生み出すということを示さなければなりません。
もちろん、生物学の基礎を理解している人なら誰でも、ダーウ ィンと同じように、自然淘汰が筋の通ったプロセスであり、実際 に観察することができるということを認めます。
しかしながら、自然淘汰は既に遺伝子の中に含まれている情報 の範囲内でのみ起きるのです。新しい情報を生み出すことはあり ません ... 。(注18、19) 実際に、これは起源に関する聖書の記述と一致 します。聖書では、神(造り主)がそれぞれ別個の「種類」の動物 と植物を創造し、それぞれの種類が同じ種類の仲間を作り出すこ とになった、と記述されています。
確かに、一つの「種類」の中に幅広い多様性を認め、自然淘汰 の結果を見ることができます。例えば、狼-犬という「種類」の 遺伝子にある情報の範囲内で自然淘汰が起こり、その結果として、 狼、コヨーテ、ディンゴというふうに時を経て発展してきました。 しかし、重要なこと は、新しい情報 ..... が生 まれたのではなく、 もともと犬という種 類の中にあった情報 が再配置され、区別 され、分離された結 果、犬の多様性が出 来あがったというこ とです。ある「種類」 の生物がまったく異 なる「種類」へと変化 し、以前に存在しな かった情報を持つようになったという観察例はありません。(注20) 知性の投入により、もともとの情報が増加するということがなけ れば、自然淘汰が進化のメカニズムとして機能することはあり得 ないのです。
このことを立証するため、デントン博士は次のように語ってい ます。
「いくら強調しても強調し過ぎることはないことです が、自然淘汰によって進化が起こったと考えることは、 知性に導かれずに、しかも知性をまったく投入するこ となく問題を解決することに似ています。知性の投入 を含む営みは、自然淘汰による進化とはまったく異な るものです。」(注21)
情報を増加させる方法がなければ、自然淘汰が進化のメカニズ ムとして機能することはあり得ません。進化論者はこのことにつ いては同意しますが、突然変異が何らかの方法で新しい情報を提 供し、その情報によって自然淘汰が起こると考えるのです。
実のところ、答えが絶対に「ノー!」であることは今日の科学 者は知っています。有能な科学者で、ジョンズ・ホプキンス大学 で情報とコミュニケーションの理論を教えていたリー・スペット ナー博士は、この問題を徹底的に研究し、「偶然ではあり得ない (原題: Not by Chance)」という学術的著書で、その答えが「ノ ー」であることを極めて明白に示しています。
「この章では、進化、とりわけ突然変異の例をいくつ か挙げ、情報が増加していないことを示します。…… 私の調査した生命科学の文献には、突然変異によって 情報が新たに加えられた ..... という例は一つもありませ ん。」(注22, 強調筆者)
「突然変異を分子レベルで研究したところ、突然変異 によって遺伝子情報が増加するのではなく、減少する .... ということが、あらゆる事例によって示されています。」 (注23, 強調筆者)
「ネオダーウィニズム[訳者注: 突然変異と自然淘汰 が進化のメカニズムとなっているとする説]はどのよう にして生命の持つ情報が進化によって組み立てられたか を説明するとされています。生物学的に見て、ヒトとバ クテリアの根源的な差異はそれぞれの持っている情報 の差異にあります。その他すべての生物学的差異はそこ から来ています。ヒトゲノム[訳者注: ヒトの染色体の 一組]はバクテリアのゲノムよりもはるかに多くの情報 量を持っています。突然変異では情報が失われるため ............... 、 突然変異によって情報が組み立てられることはあり得 ........................ ません ... 。企業が少しずつお金を失っていけば ................ 、お金を儲 .... けることができないのと同様です ............... 。」(注24, 強調筆者)
これはスペットナー博士を含む多くの科学者が到達した結論で す。進化論を信奉する科学者は、この結論を回避することができ ません。突然変異が進化のプロセスを説明するメカニズムとして 機能することは、決してない ..... のです。スペットナーは次のように 要約しています。
「小さな出来事が続けて起こり、それが十分な回数だ け繰り返されるならば、大きな変化が起こり、進化が 起こり得るということを、ネオダーウィニストは私た ちに信じ込ませようとしています。
しかし、小さな出来事によって必ず情報が失われる .... のであれば、何度突然変異を繰り返したところで、突 然変異が、ネオダーウィニズムによって説明されるは ずの進化の段階とはなり得ません。突然変異によって 情報が失われるにも関わらず、突然変異によって大進 化[訳者注: 種のレベルを超えた進化]が起こり得ると 考える人がいるとすれば、その人は、物を売るごとに 必ず赤字を出しながら、大量に売れば儲けが出ると考 えた商人のようなものです。
突然変異によってゲノムに少しでも情報が加えられ たという観察例は一つもありません。このことは、ネ オダーウィニズムの成立に不可欠な何億何兆もの突然 変異はないということを確実に示しています。もしか すると、そのような突然変異はまったくないかもしれ ません。突然変異によって情報が加えられた例がまっ たく観察されていないということは、ただ単にネオダ ーウィニズムを証明する材料が見つけられないという だけではありません。それは、ネオダーウィニズムを 反証する .... 証拠となっているのです。この点で私たちは、 ネオダーウィニズムに対する重大な異議申立てを行な っているのです。」(注25, 強調筆者)
このことは、ドイツ連邦物理科学技術大学の学長で、教授のワ ーナー・ギット博士も立証しています。「突然変異を通して新し い情報が生じるのか」という問いに対して、ギット博士は次のよ うに答えています。
「……この考えは進化論の説明の中で中心的な位置を 占めていますが、突然変異が起こっても既存の ... 情報が変 化するだけなのです。情報が増加することはあり得な いし、一般的に、有害な結果が生じます。新しい機能や 新しい器官のための青写真は現れません。突然変異は 新しい(創造的な)情報の源とはなり得ません。」(注26, 強調筆者)
自然淘汰と突然変異には、生命システムの情報と設計を生み出 すメカニズムとしての可能性がないとすれば、メカニズムの源を 他に見つけ出さなければなりません。
しかし、情報の源としての造り主なる神を退けるなら、さらに 基礎的な次元で問題が現れるのです。
自分がボーイング747旅客機の座席に座り、この巨大な旅客機 の構造について書かれた物を読んでいるところを想像してみてく ださい。この空飛ぶ機械が600万個の部品から成り立っている という事実に心を引き 付けられます。しかし 次の瞬間、それらの部 品のどれを取ってみて もそれ自体では空を飛 べないということに気 づかされます!
上空約11キロメートルを時速約800キロメートルで、600万個 の部品の集まりが飛んでいるとすれば、はなはだ心もとない気分 にさせられるかもしれません!
しかしながら、旅客機の部品一つ一つは空を飛べなくても、組 み合わせて完成した機械になれば空を飛べるという事実を考える と心が落ち着きます。
旅客機の構造をアナロジーとして用いることで、生命体が正常 に機能するのを可能にする細胞が、どのような生化学の基礎的メ カニズムを持っているのかを理解することができるのです
細胞の中に「生化学的機械」と呼べるものが何千個もあるという ことを、科学者たちは既に発見しました。例えば、光を感知して、 光を電気的衝撃に変化させるという、細胞の持つ能力を挙げるこ とができます。光を感知して、光を電気的衝撃に変化させるとい うように、かつての科学者たちが単純なプロセスだと考えたもの は、実は非常に複雑な現象なのです。例として挙げたこの現象が 起こるだけでも、おびただしい数の化合物がすべて決められた時 に決められた場所にあり、決められた濃度で存在しなければなり ません。そうでなければこの現象は起こり得ません。言い換えれば、 部品がすべて組み立てられた後でなければボーイング747旅客機 が空を飛べないのと同じように、細胞内にある「生化学的機械」の 部品すべてが決められた場所になければならず、そうでなければ 機能しないのです。そして一つの細胞の中にはこのような「機械」 が実に何千個もあり、それらは細胞が機能するのに不可欠な役割 を果たしています。
では、この事実は何を意味しているのでしょうか。極めて単純 に言えば、化学物質が生命体システムへと進化するのは不可能だ .... ということです。
今日の科学者は、生命がこれらの「機械」の上に組み立てられ ているということを知っています。ペンシルバニア州のリーハイ 大学で生化学の準教授として教鞭を取っているマイケル・ベーエ 博士は、これらの「生化学的機械」を「単純化できない複雑さ」と 形容しています。
「いまこそ、生命の基礎科学である現代生化学が攪乱 かくらん をもたらす時だ。生命の基礎はかつて単純だと思われ ................ ていたが .... 、それはまぼろしであることがわかった ................. 。細胞 には、単純化できない恐ろしいほどの複雑さがあった。
その結果、生命はある知性によってデザインされた という認識が生まれ、生命は単純な自然法則の結果だ と考えることに馴らされてきた二〇世紀の私たちに、 ショックを与えた。しかし他の世紀には他の世紀のシ ョックがあったわけで、私たちがショックから免れる べきだと考える理由はどこにもない。」(注27, 強調筆者)
さらに説明を続けましょう。蚊を叩きつけるところを想像して ください。そして、この質問について考えてください。「なぜ蚊 は死んだのか。」進化論者は原始スープ[訳者注: 進化論で、地球 上に生命を発生させたと考えられている有機物の混合液]のなか に生命の誕生に必要な化学物質が あったという希望を抱いています が、叩き潰された蚊の中にも、原 始スープの中にあったと考えられ る、生命の誕生に必要な化学物質 がすべてあります。それでも、こ の蚊の「スープ」からは何も進化し てこないことが分かります。では、 なぜ蚊は死んだのでしょうか。そ れは、蚊を叩きつけることによっ て蚊の構造を乱してしまった ............ から です!
いったん蚊の「機械」が破壊されてしまうと、生命体はもはや 存在することができません。細胞のレベルでは、実に何千もの 「機械」があり、それらの「機械」は、生命の存在が可能になる以 前に存在していなければならないのです。このことから言えるこ とは、化学物質から進化が起こるということは不可能だ .... というこ とです。
進化論者のドーキンスは、まず「機械」の必要性というこの問 題を認め、次のように述べています。
「ゼロックス複写機は自分自身の設計図をコピーでき るが、知らないうちに組み立てられていることはあり えない。バイオモルフ[訳者注: 進化のモデルをコンピ ューター上で表したもの]は、コンピューターに適当な プログラムが準備されていれば容易に複製されるが、 自分自身のプログラムを書いたり、そのプログラムを 走らせるコンピューターをつくったりはできない。盲 目の時計職人の理論は、複製および累積淘汰を仮定す ることが許されれば、このうえなく強力である。しか し、もし複製のために複雑な装置が必要となれば、複 雑な装置を最終的に出現させる唯一の方法としてわれ われが知っているのは累積淘汰なのだから、問題が生 じる。」(注28)
これは大きな問題です! 生命の仕組みを深く見ていくにつれ て、生命はますます複雑になり、生命が自然に誕生し得ない ...... とい うことがますます分かってきます。情報の源が生命誕生の必須条 件であるのみならず、生命に必要な化学物質を作り出す複雑な 「機械」が最初から .... 存在していなければならなかったのです。
遺伝を司る分子(とその中にある情報)を形作っている化学物質 が過去のある時点で混ぜ合わさりさえすれば、生命が誕生するこ とはあり得るのだという推測をすることで、前述した問題を回避 しようと試みる科学者や教育者も、これまでにいました。
既に述べたように、生命は情報の上に組み立てられています。実 際、人体を形作っている何兆もの細胞の内から一つだけを取って みても、その細胞の遺伝子の中にある情報量は、1冊500ページの 本1000冊以上の情報量に等しいと考えられてきました。現在、科 学者たちはその数字が極めて控えめなものだと考えています。
この情報はどこから来たので しょうか。次のような説明をし ようとする人もいます。想像し てみてください。教授がAから Zまでのアルファベットを帽子 に入れています。その後で教授 は、帽子を学生たちに渡し、学 生たち一人一人に無作為に文字 を選ばせるとしましょう。
学生3人が順にB、A、Tを選 ぶ可能性があることは(その可能 性がどれほど低いとしても)、容 易に分かるでしょう。この3つのアルファベットを合わせれば、 BAT(こうもり)という単語ができ上がります。こうして、教授 は次のような結論を出します。十分な時間があれば、どれほど可 能性が低いとしても、単語を綴り、つなぎ合わせて一文を作り 最終的に百科事典になるという可能 性が常にある、という結論です。そ して学生は、化学物質から生命へと 進化するのに知的存在は必要ではな いという考えへと誘導されます。D NAのように、決まった順序で化合 物が並べば、生命が誕生するという ことになります。
表面上は、理にかなった議論のよ うに見えます。しかしながら、この アナロジーには基本的で致命的な欠 陥があります。
考えてみてください。「BAT」と綴ったものは、誰にとって意 味をなす単語となりうるのでしょうか。イギリス人か、オランダ 人か、フランス人か、ドイツ人か、それとも中国人でしょうか。
それは、英語という言語を知っている人に とってのみ、意味をなす単語となるのです。 言い換えれば、文字の順序に意味を与える既 存の言語体系と解釈の体系がなければ、文字 の順序は意味を持たないのです!
細胞のDNAの場合、分子の順序に意味を 与える言語体系(他の分子)が細胞の生化学 的構成の中になければ、分子の順序もアルフ ァベットの場合と同様に意味を持ちません。 言語体系のないDNAは意味を持たず、DNA のない言語体系も機能しません。事態を複雑 にしていることがもう一つあります。それ
「……自然現象であれ、プロセスであれ、連鎖的現象 であれ、情報が物質の中に自力で姿を現すという類 たぐい の ものは、私たちは知りません。」(注31)
以上のことから、生き物の中にある莫大な情報量は知的存在か らもたらされたに違いないという結論を引き出すことができま す。この知的存在は、私たちをはるかに超えた存在でなくてはな らなかったことになります。しかし、そうなると、そのような源 はさらに大きな情報― 知性を持った何かによって引き起こされ なければならなくなると言う人もいるでしょう。
しかしながら、このように議論を進めていくと、このさらに大 きな情報― 知性はどこから来たのか、という疑問が浮かび上が ってきます。では、このさらにもう一回り大きな情報― 知性は どこから来たのでしょうか。論理を拡大してくと、無限の時間へ と辿り着いてしまい、開始点がなくなってしまいます。
ただし、私たちの有限の理解力を超えた無限の知性が存在し、 その知性が源となっていれば、開始点が現れます。そして、これ は聖書が次の箇所で指し示していることではないでしょうか。 「初めに、神が…… 。」聖書に書かれている神(造り主)は、無限 の存在なる方であり、時間的、空間的、その他どのような限界に よっても制限されていません。
進化論者であるリチャード・ドーキンスですら、このことを認 めています。
「ひとたびその組織的な複雑さ、DNA/タンパク質 複製装置という組織的な複雑ささえ想定を許されたな ら、その機関に頼っていっそう組織的な複雑さを派生 させることはそれほどむずかしくない。実際、本書の 大半はそのことについて述べているのである。しかし、 DNA/タンパク質複製装置ほど複雑なものを理性的に デザインできる神なら、当然少なくともその機械その ものと同じくらいには複雑で組織的だったにちがいな い。さらに、神は信者の告白を聴いたり罪を許したり といった高度なはたらきもできるのであれば、もっと はるかに複雑にちがいない。
DNA/タンパク質複製装置の起源を超自然の『デザ イナー』に頼って説明することは、『デザイナー』の起源 を説明しないままにしているのだから、まさしく何も説 明していないことになる。『神は常にいらっしゃった』 といった類のことを言わざるをえなくなり、そうした怠 惰な逃げ道を認めるのなら、『DNAは常にいらっしゃっ た』とでも『生命は常にいらっしゃった』とでも言って よいことになり、それで終わってしまう。」(注32)
では、論理的に言って、 どのような立場であれば 擁護 ようご することができるので しょうか。物質が最初から 存在し(あるいは何の原因 もなくひとりでに誕生し)、 その後で物質がひとりでに 決まった順序で並び、情報 の体系ができあがったとい う立場― この立場は真の 科学によって観察されていることに反します .... ― であれば擁護で きるのでしょうか。それとも、無限の存在なる方、聖書に書かれ ている神(造り主)、無限の知性の源(注33)であられる方が、生命 の存在に必要な情報の体系を創造したという立場― この立場 は、真の科学と一致します ..... ― であれば擁護できるのでしょうか。
無限の造り主なる神について聖書の中でなされている主張が、 真の科学によって擁護されるとすれば、知性あふれる科学者たち 全員がこの主張を受け入れないのはなぜでしょうか。マイケル・ ベーエはこのことについて次のような答えを出しています。
「科学が知的デザイナー説をいやがる四番目のもっと も強力な理由は、やはり哲学的な考慮に基づくもので ある。非常に尊敬されている多数の重鎮の科学者を含 めて、多くの人々は、自然を超えるものはとにかく存 在してほしくないと思っている。どんなにわずかな、 または建設的な相互作用であっても、超自然的存在が 自然に影響を与えてほしくない ..... のである。言い換えれ ば、……物的世界に関して自分たちが受け入れる説明 の種類を限定することになるような哲学的な立場を、 初めから科学に持ち込んでいるのだ。これは時にはむ しろ奇妙な行動を招くことがある。」(注34, 強調筆者)
この議論の最も重要な点を述 べましょう。私たちを創造した 神が存在するということを受け 入れるなら、その神が私たちの 所有者であるということになり ます。この神が聖書に書かれて いる造り主であるなら、その造 り主が私たちの所有者であり、従って、その造り主が私たちの守 るべき規則を定める権利を持っているということになります。
さらに重要なことですが、私たちの造り主なる神に対して私た ちは反抗しているのだということを、神(造り主)が聖書の中で 私たちにおっしゃっています。この反抗という罪のために私たち の肉体は死に定められていますが、造り主の裁きを受けるか免れ るかに関わらず、私たちの魂は永遠に生き続けます。しかし良い 知らせがあります。私たちの造り主は、私たちが反抗という罪か ら救われる手段を用意してくださいました。信仰と罪の悔い改め とによって造り主のみもとに行く人は、聖なる造り主の赦しを受 け、永遠の時をともに過ごすことができるのです。(このことにつ いては、この小冊子の終わりの部分でさらに詳しく説明します。)
その名が示すとおり、無限の存在なる方は最初から存在してお られました。神を創造した人はいません。造り主は、何物にも依 存せずに存在しておられます。聖書に書かれているように、偉大 なる「わたしはある」という方です。(注35) 造り主は時間の外に おられます。それどころか、造り主が時間を創造されたのです。
あなたは次のように言うかもしれません。「しかしそうなると、 私はこのことを完全には理解できないため、信仰によって受け入 れなければならなくなってしまいます。」
聖書には次のように書かれています。「信仰がなくては、神に 喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられること と、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じな ければならないのです。」(ヘブル11:6)
では、キリスト教の信仰とはどのようなものなのでしょうか。 キリスト教の信仰を盲目の信仰と考えている人もいますが、実際 はそのようなものではありません。それどころか、盲目の信仰を 抱いているのは、造り主を否定する進化論者たちです。(注36) 造 り主を否定してしまうため、進化論者は真の科学と矛盾すること (つまり、情報が無秩序から偶然に現れたということ)を信じなけ ればならなくなるのです。しかし、キリストが聖霊を通してクリ スチャンの目を開いてくださるため、クリスチャンは自分たちの 信仰が本物であることが分かるのです。(注37)
キリスト教の信仰は、論理的に擁護することができます。このた め、造り主を信じない人には弁解の余地がないことが聖書によっ て明確にされています。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、 世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっ きりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」 (ローマ1:20)
聖書が単に、数ある宗教関連の書物の中の一つではなく、その 中でなされている主張のとおり、造り主なる神のみことばである ... ということは、クリスチャンとして生きていく上で心沸き踊らさ れることです。(注38)
なぜ美しさと醜さがあるのでしょうか。なぜ生と死があるので しょうか。なぜ健康と病気があるのでしょうか。なぜ愛と憎しみ があるのでしょうか。このような問いに対する答えが説明されて いるのは、聖書のみです。また、すべての基本的な生命存在と全 宇宙の起源に関する、真実で信頼するに足る記述は、聖書の中で のみ発見することができます。
聖書の歴史的記述は考古学、生物学、地質学、及び天文学によっ て何度も何度も確認されてきました。聖書は造り主の御霊 みたま (聖霊) によって動かされた数多くの様々な著者によって書かれ、成立に 何百年も要したにも関らず、聖書の中には矛盾も誤った情報も見 つかっていません。
様々な分野の科学者たちが、何百もの書物とテープを作成し、 聖書の正確さを擁護し、聖書は私たちの造り主から私たちに向け られた啓示であるという、聖書自身の中にある主張を擁護してき ました。聖書は、私たちがどのような存在で、どこから来たのか ということを語り掛けてくるだけではありません。聖書は、私た ちの主であり救い主である方と永遠の時を過ごすにはどうしたら いいのかという良い知らせを、私たちに告げているのです。
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アンサーズ・イン・ジェネシス(日本語の意味は「答えは創世記 に」)は、造り主である神に栄光と栄誉をお返しするため、世界 と人類の本当の起源・歴史を記した聖書の記述が正しいことを論 証するために活動しています。
この人類の本当の歴史には、最初の人アダムが造り主の命令に 反抗したために死や苦しみ、造り主からの別離がこの世にもたら されたという悪い知らせも含まれます。その結果は、私たちの周 りの至るところで見ることができます。すべてのアダムの子孫は、 みごもられたときから罪の性質を持って産まれ( 詩篇51:5)、そ して自らもアダムと同じ反抗(罪)の道を歩んでいます。そのため、 人類は聖なる造り主と共に生きることはできず、造り主から引き 離されている存在です。聖書はこう言っています。「すべての人 は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ロ ーマ3:23)、そのためすべての人は、「主の御顔の前とその御力の 栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受ける」(2テサロニケ 1:9)。
しかし良い知らせは、造り主がそのことについて備えをしてく ださったということです。「神は、実に、そのひとり子をお与え になったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひと りとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨ ハネ3:16)。
造り主であられるイエス・キリストはまったく罪のない方であ ったにもかかわらず、人類の罪に対する刑罰である死と造り主か らの別離を、人類に代わってその身に受けられました。イエスは そうすることによって、御父なる神(造り主)の聖さと正義が要 求する条件を満たされたのです。イエスは欠けたところのない、 完全ないけにえとして十字架上で死なれましたが、3日目に復活 され、死に打ち勝たれました。それは、主を心から信じ、自らの 罪を悔い改め、自分自身の功績ではなく主により頼む者は誰でも 造り主に立ち返り、彼と永遠に生きることができるようにしてく ださるためでした。
ですから、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神の ひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」の です(ヨハネ3:18)。聖書はこうも言っています。「もし、私たち が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、そ の罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1 ヨハネ1:9)。
何とすばらしい救い主でしょうか。キリストにある救いは何と すばらしいのでしょう!
永遠のいのちを受け取ることについて聖書が何と言っているか さらに詳しく知りたい方は、この小冊子をあなたにさし上げた人、 アンサーズ・イン・ジェネシス、またはインターナショナル・チ ャペル・ミニストリーズまでご連絡ください。アンサーズ・イ ン・ジェネシスとインターナショナル・チャペル・ミニストリー ズ(ICM出版)については表紙裏面のページをご覧ください。
注1 詩篇90:2,106:48,147:5。始まりを持つものだけに、始まり の原因がなくてはならないことに注意。J. Sarfati執筆"If God created the universe, then who created God?"(CEN Technical Journal 12(1) 20-22, 1998年 に掲載)を参照。
注2 W. Paley 著Natural Theology: or Evidences of the Existence and Attributes of the Deity, Collected From the Appearances of Nature。1802年初版。 1972年St. Thomas Press 社(Houston, Texas)より再版。p. 3。
注3 I. Taylor 著"In the Minds of Men"。1991年TFE Publishing 社 (Toronto, Canada)より出版。p. 121。
注4 このプロセスにより、生物が無生物から自然発生的に現れたと考え られています。長い時の流れを経て、小さな変化を繰り返した結果、様々 な種類の動物と植物が発達し、遺伝子の情報が増加したと考えられていま す。例えば、進化論者によると、魚類が両生類へと発達し、両生類が爬虫 類へと発達し、爬虫類が鳥類及び哺乳類へと進化したと考えられています。 ヒトは、サルと同じ祖先から最終的に進化してきたと考えられています。
注5 Asimov, Isaac 著"In the Game of Energy and Thermodynamics You Can't Even Break Even" (S m i t h s o n i an《J u n e》に掲載)。1970年出版。[引用は、 The Illustrated ORIGINS Answer Book, p. 82。1995年Eden Communications社 (Gilbert, Arizona)より出版。]p. 10。
注6 Denton, Michael 著Evolution: A Theory in Crisis。1986年Adler & Adler Publishers, Inc. 社(Bethesda, Maryland)より出版。p. 342。
注7 Dawkins, Richard 著The Blind Watchmaker。1987年W. W. Norton & Co.社(New York)より出版。 日本語版:リチャード・ドーキンス著。「ブラインド・ウォッチメイカー - 自然淘汰は偶然か?-」、訳:中嶋康裕・遠藤彰・遠藤知二・疋田努。1993 年、早川書房より出版。p. 82。
注8 同上の日本語版。p. 24。
注9 同上。
注10 Dawkins, Richard 著"The Necessity of Darwinism." 1982年(N e w Scientist, vol. 94《April》に掲載)。p. 130。
注11 ドーキンス著。「ブラインド・ウォッチメイカー」。p. 82。
注12 創造論者であるゲイリー・パーカー(Gary Parker)博士の議論によ ると、(私が次の節で論じているように)自然淘汰は起こりますが、いわば 「防腐剤」の働きをするのであり、ある生命体が別の生命体に変化するとい うことにはまったく関係がありません! 「自然淘汰は現在私たちの住む堕 . 落した ... 世界で、創造された種類が生態的及び地理的多様性をもって(今日で は往々にして人間のもたらす汚染をものともせず)、地上のあらゆる場所に 広がることを可能にするために起こるプロセスの一つに過ぎません。」 Parker, Gary 著"Creation Facts of Life"。1994年Master Books 社(G r e e n Forest, Arkansas)より出版。p. 75。 「[リチャード]レワンティン(Richard Lewontin)は進化論者であり反創造 論者であることを公言している人物ですが、創造論の科学者の認める自然 淘汰の限界を正直に認めています。 『……自然淘汰は本質的に、生命体が適応状態を向上させるためにではな く、むしろ維持する .... ために起こるのです。』(強調筆者)」 「自然淘汰は連続的向上(進化)には至りません。自然淘汰は生命体が既 に備えている特徴(創造)を維持するのに役立つだけです。レワンティンは、 絶滅した種が現在も生存している種と同程度に生存に適していたようにみ られることに注目し、次のように付け加えています。『……長期的に見て自 然淘汰が種の生存率を向上させることはないようです。自然淘汰によって、 単に種が常に変化する環境の「跡を追う」か、あるいはそのような環境変化 に着いて行くこと ....... ができるだけなのです。』」(強調筆者) 「自然淘汰が起こるのは、生態的及び地理的多様性をもって増加し、地球 を埋め尽くすだけの十分な多様性をもってそれぞれの種類が創造されたか らだと、私には思われます。」Parker, Gary著。1994年出版。pp. 84~86。
注13 同上。pp. 70~86。
注14 Wieland, Carl 著"Stones and Bones"。1995年Creation Science Foundation Ltd. 社(Acacia Ridge D.C., Queensland,Australia)より出版。pp. 18~20。
注15 「結局のところ、突然変異は既存の遺伝子の変化に過ぎません .................... 。」 Parker著。1994年出版。p. 103。 「『The Mechanisms of Evolution』という、逆説的な表題の記事の中で、フ ランシスコ・アヤラは突然変異をDNAの『エラー』と定義づけています。」 Parker著。1994年出版。p. 99。
注16 同上。pp. 88~104。
注17 Wieland 著。1995年出版。pp. 18~25。
注18 Bohlin, Raymond G. 共著"The Natural Limits to Biological Change"。1989年Probe Books社(Dallas, Texas)より出版。pp. 175~ 176。
注19 E. Noble, G. Noble, G. Schad, A. MacInnes 共著"Parasitology: The Biology of Animal Parasites"。1989年Lea & Febiger 社(P h i l a d e l p h i a , Pennsylvania)より出版。第6章「Evolution of Parasitism?」の516ページには 次のように書かれています。「自然淘汰は既存の生物学的特性の範囲内での み起こります。環境に適応する必要性から新しい特性を造り出すことはで きません。」
注20 例えば、進化論者は創造論とは正反対のことを証明するに至って いないにも関わらず進化論を主張していますが、そのような主張に反して、 爬虫類が鳥類へと変化するのを観察したり記録したりした人は誰もいませ ん。始祖鳥は「中間」の生物として進化論者にもてはやされた典型的な例で すが、今では多くの進化論者は「中間」の生物としての始祖鳥を退けていま す。(Gary Parker 著"Creation: Facts of Life" を参照。1994年Master Books 社、 Green Forest, Arkansasより出版。)
注21 Denton 著。1986年出版。p. 317。
注22 Spetner, Lee 博士著"Not By Chance"。1997年The Judaica Press, Inc. 社(Brooklyn, New York)より出版。pp. 131~132。
注23 同上。p. 138。
注24 同上。p. 143。
注25 同上。pp. 150~160。
注26 Gitt, Werner 著"In the Beginning Was Information"。1997年出版。 CLV社(Bielefeld, Germany)より出版。p. 127。
注27 Behe, Michael J. 著"Darwin's Black Box"。1996年The Free Press 社 (New York)より出版。 日本語版:マイケル・J・ベーエ著。「ダーウィンのブラックボックス 生命 像への新しい挑戦」。訳:長野敬・野村尚子。1998年、青土社より出版。 p. 352。
注28 ドーキンス著。1993年出版。p. 232。
注29 Gitt 著。1997年出版。pp. 64~67。
注30 同上。p. 79。
注31 同上。p. 107。
注32 ドーキンス著。1993年出版。p. 233。
注33 従って無限の情報を生み出すことができ、有限ではあるものの、 膨大な生命の情報も確実に生み出すことができます。
注34 ベーエ著。1998年。p. 340。
注35 出エジプト記3:14, ヨブ記38:4, ヨハネ8:58, 黙示録1:18, イザヤ書44:6, 申命記4:39。
注36 マタイ13:15, ヨハネ12:40, ローマ11:8~10。
注37 マタイ13:16, 使徒26:18, エペソ1:18, 1ヨハネ1:1。
注38 マタイ5:18, 2テモテ3:16, 2ペテロ1:21, 詩篇12:6, 1 テサロニケ2:13。